身近な人の励ましは、大きな力となる
人を育てるときに大事なことは、
心配ではなくて、信じること。
その人が心配でいろんなお世話をするのではなく、自立できるようにサポートすることがポイントなんだと思います。
私の両親はあまり意識していなかったかもしれません。
ですが、結果的に私がどこか脳天気にいろんなことを乗り越えられたのは、両親が自立できるように応援してくれたからだと思っています。
私は北海道樺戸郡浦臼町という小さな農村の生まれです。
自然豊かなこの町に、親と一緒に高校卒業まで住んでいました。
今日はふたりのことについてちょっと話をしますね。
決めたことを一度であきらめるな
父は樺太生まれ。
本が好きで東京の大学へ行くのが夢だったと聞いています。その夢は第二次世界大戦のために叶いませんでした。
引き揚げてきた日本では、「小学校卒」としか認められなかったようです。それでも、40歳を過ぎてから大学の通信教育を受けるなど、努力していました。
母は浦臼町の農家の生まれ。
あまり裕福ではない大家族の家庭で育ちました。ちょっといたずら好きで陽気な家ではありましたが、兄弟姉妹が多いゆえに母は大学進学をあきらめました。
こんな両親の元に育ったので、ふたりともできれば娘を大学に進学させたいと思っていたようです。私も中学生の頃から、自分は大学に行くのだと漠然と思っていました。
親は「北海道の国公立大学を卒業して、公務員か先生になってほしい」と私に繰り返し言っていました。それが両親の期待。
が、、、
当の私は高校2年生のときに、国公立の受験をあきらめました。
こんなにたくさんの科目を勉強するのは私にはムリだと、、、(^^ゞ
そして、「アフリカの文化を教えているこの先生のところで勉強したい。」と東京の私立大学に行くことしか考えていませんでした。
私が「北海道の大学は受験しない。学費は安いし、寮に住むから東京に行かせてほしい」と言ったときから、家の中はぎくしゃくしました。
両親には何も相談せず、大学に願書を出し、宿と飛行機を予約しました。東京には行ったことがなかったので、当時文通をしていた友人に東京案内することもお願いしました。ここまでひとりで段取りしたので、両親も本気だと思ってくれたのでしょう。とにかくお金だけは出してくれました。
なんだかんだ言っても、私をサポートしたいと思ってくれたのでしょう。あのときお金を払ってくれなかったら、高校生の私は何もできなかったはずです。
自分が行きたくても、社会情勢や家庭の事情で行けなかった大学。言うことを聞かない私に歯がゆい思いをしながらも、夢を叶えたいという私の意志を尊重してくれたのでしょうか。
そんなにがんばって受験したのに、私は試験に落ちてしまいました。( ゚Д゚)
行くところがないんだと呆然としていたとき、父がチャンスをくれました。
「一度失敗したからといって、自分が決めたことをあきらめてはいけない。それではだめになる」と言って、浪人させてくれました。
そんなこんなで二回目は、無事に第一希望の大学に合格できました。
母は私が東京に行きたいと言ったときから、反対しているにも関わらず事務の仕事をして、大学に入ったあとは仕送りをしてくれました。
10代の若いとき両親の考えと違うことで大喧嘩しても、最終的には私を支えて夢を応援してくれたことに、とても感謝しています。
資金援助はしないと言われた日
両親はあんなに安定した職について、一生食べていけることを望んでいたというのに、、、
娘はなぜかだか、決められたレールから外れる人生を送っています(^^ゞ
29歳のときには、当時の上司や同僚と会社を立ち上げました。
上司が社長、ほかは全員取締役になるということで、自覚はほとんどなかったのですが経営者としての道を歩き始めました。
この会社が倒産寸前になったことで、Web屋になる道が開けるのですが、、、資金ショートはあと何カ月後、、、という状態で、緊張の日々でした。
このときは離婚して、小学生の娘をひとりで育てている状態。
自分の給与が大幅にカットになり、もしかしたら給与は0になってしまうかもしれないという状況でした。
おまけにあてにしていた養育費も、途切れがちになってました。
弱気になった私は、実家に電話しました。せめて、孫のために毎月少しでもよいから援助してほしいと父に頼みました。
父の返事は、
「金は出さない。自分でがんばれ。どうしても生きていけなくなったら、家に帰って来てもいい。そのときは養ってやるから」
でした。
ショックでした。でも、それから私は相当がんばりました。自分の娘を育てるため、会社のために。
今思うのは、あのとき安易にお金を出してもらわなくてよかったなぁということです。私は「自分の人生は自分で切り開く」と覚悟を決めることができたからです。
お金は貸してくれませんでしたが、「どうしてもだめだったら帰ってきていいよ」と救いの言葉をくれていたのもよかったのだと思います。
普通に人々の描く女性のシアワセな人生を送れない私。
(常識的でないところで、シアワセに生きていますが)
そんな私を、はらはらしてみていたことでしょう。
両親はメモ魔
最近気づいたのは、両親ともにメモ魔、筆まめだということです。
父は7年前にすい臓がんで亡くなりました。
病名がわかってから約2年生きることができました。その間、毎日自分の体調を記録していました。血圧、体温、そのときの体調をびっちり書いたノートは、父の遺品として私が持っています。
母は父が亡くなってからパソコンにはまり、今ではアメブロで毎日ブログを書いています。
(●^o^●)
デジカメを持って歩き、ブログに写真をアップしてブロ友と交流して楽しんでいます。
そんな両親の子である私は、娘の成長の記録魔でした。
0歳から入った保育園から学童保育を終える小学校3年生まで、毎日娘を見てはこんなことがあったと楽しく書いていました。
娘の記録は、私の宝物です。
(彼女が9年間の成長記録を見たら、涙すると思うなぁ)
ブログを書いて何とか会社の倒産を防げたことも、筆まめ遺伝子がそうさせたのかもしれません。
19歳から両親とは一度も一緒に住んだことはない私ですが、いつもいつも精神的には大きなサポートを受けていたと思います。普通の人ですが、私にとっては大事な存在です。
母はよく私に「安心させて」と言いますが、そんな日が来るかはあまり自信がありません。
安心しない方が元気で生きてくれるような気がしています(笑)
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この記事の投稿者
白藤沙織
Web・印刷の株式会社正文舎取締役。 Webプロデューサー 兼 ライター。ときどきセミナー講師。 コーチやカウンセラーの資格を持ち、仕事に活かしています。 ダンス・歌・演劇好き。4コマ漫画のサザエさんをこよなく愛しています。
営業をどのようにしたらよいかわからないときに、Webサイトとブログ、SNSに出会う。以来、情報発信を丁寧にして未来のお客様と出会ったり、お客様のフォローをしています。
仕事もプライベートも「自分の生きたい人生を生きる」ために、「自信や勇気」を届けられたらうれしいです。