物事を判断する前に、立場、背景、文化をしっかり把握する力を持ちたい ~サマセット・モーム「雨」を読んで思ったこと
2月最初の週末は、札幌にも40年ぶりの寒波が襲ってきて、昼間でも外気温がマイナス12度くらい。
寒さで目覚めた朝は、お布団から出たくなくて、結局ストーブをつけてすぐにお布団に戻って本を読むことに決めました。
選んだ本は、サマセット・モームの短編集Ⅰ「雨・赤毛」。
南洋のサモア諸島を舞台にした小説で、「雨」は世界短編小説市場の傑作と言われています。今日は雨を読んだ感想をまとめてみたいと思います。
人に価値観を押し付けても、自分が苦しくなるだけ
「雨」の主な登場人物は、医者のマクフェイルと妻、宣教師のディビッドソンと妻、それにたぶん娼婦であるミス・トムソン。船で任地へむかっていたところ、はしかが流行って検疫のために途中の小島に上陸します。雨がずっと降っていて、その土地で家を借りて船の出発を待っているところで展開される物語です。
宣教師のディビッドソンは現地で情熱をもってキリスト教の布教をしているのですが、それはある意味異常ともいえます。この夫妻は現地の住民の文化などを一切否定して、キリスト教信者にして正しい道を歩ませなきゃと硬く信じています。ここに息苦しさを私は感じ、またスコールで雨がずっと降り続くうっとうしさもあわせて伝わってきました。
そして、同じところに宿泊していたミス・トムソンは、夜にパーティをいてそこでも客を取っていました。ディビットソンはその彼女を容認することができず、なんとかまっとうな心にしようと画策するのです。
こいつはけしからん奴だ。まともな人間に変えなくては。
宣教師なので、こんな乱暴な言葉は使わなかったかもしれませんが、まぁこんな感じなんでしょう。
それで、総督と掛け合い、彼女をアメリカに強制送還させる手段までとります。アメリカに戻ると、彼女は3年は刑務所に収容されるかもしれず、ミス・トムソンはがらっと人柄が変わって弱弱しくなり、ディビットソンに頼り切るようになりました。マクフィル医師は、総督にミス・トムソンにそこまでする必要がないと掛け合うのですが、それは受け入れらず、ミス・トムソンが取り乱した時も心を安定させるように面倒を見るのですが、、、彼女はマクフィル医師よりも、ディビットソンを必要としていました。
ディビットソンは懸命にミス・トムソンと一緒に祈り続け、彼の妻も何か落ち着かなくなります。
彼の妻はこんなことを言います。
ディビットソンは就寝中にネブラスカの山々の夢をよく見ると妻に言います。マクフィルもその山々を見たことがあり、彼は「その形を見てなんとなく女性の乳房を連想した」ことを思い出します。
そして、ミス・トムソンが出発する前日の夜も、ディビットソンは彼女の部屋で教化に務めますが、翌朝喉を掻っ切って自殺しているところを発見されます。
彼は布教の奴隷になってしまい、返って自分の首を絞めてしまったんですね。
ミス・トムソンはまた元の娼婦に戻っていましたしね。
その夜にあったことは何も書かれていませんが、マクフィルは何があったかを感じとったようです。私もたぶん同じことを考えたかな。
それと、誰かを強制的に変えようとしても、それは不可能なんだということ感じました。ディビットソンがどんどん狂っていってしまうような感じがするのです。
他の価値観を否定しても何も変わらない
サマセット・モームがこの小説を書いたのは、第二次戦争前の白人による植民地主義の時代。だから、文章表現には人種差別的な表現が多々あります。
検疫で立ち寄った島には、ホテルがなく原住民の家しかないとか、原住民の服装が乱れていて原住民のダンスの習慣が道徳的ではないとか、そんな話が出てきます。
娘たちが胸をあらわにしている、男性がズボンをはいていないということをいかがわしいと決め、キリスト教の価値観にのっとって、服を着なければならない、ダンスをしてはならないと罰金を科していきます。
で、「この土地にはまともな娘はいない」と嘆くディビットソン妻の方が、不道徳なことで頭がいっぱいになっているように思います。
こういう感じ、今の社会でもよくありますね。周囲をよくしようと真剣になればなるほど、狂気的になり視野が狭くなること。キリスト教の布教は、植民地化するときにセットとなっていたので、これが常識と思われていました。が、植民地にされる側にとっては、自分たちの価値観を否定され、今まで生活スタイルを奪われることになってしまうから、深刻な話です。
ディビットソンの夫妻がもっと柔軟で、「あら~、この土地の気候では、服を着ない方が気持ちいいのね。」とか、「この土地では胸を出すのは当たり前だけど、私はちょっと無理ね」とか文化を楽しんでみたら事態は変わっていかたもしれません。それを自分たちが正しい、こうしなければならないという考えに凝り固まっていたから悲劇は起こったのだと思います。
こう思うのは、私が白人ではなくアジア人だからかもしれません。日本人はアジアの国の中で、唯一たのアジアの国を植民地化した国だから、人種差別的なことは疎いところがあります。私もこう感じられるようになったのは、アジア人の友だちができたことが大きいかな。それと、ある会議で一度だけ白人、有色人種と分かれてワークをした経験が大きかったと思います。有色人種だけで集まるとほんとごめんなさいという気持ちがわいてきたとともに、白人ではないのに白人の仲間に入れてもらって優越感に浸っていた日本人の歴史がちょっと滑稽に思えました。に貴重な体験だったんです。
私は歴史の中で起こったことを、ただの良い・悪いで判断することはしない方がよいと思っています。白人至上主義での差別的な発言も、ひとりひとりの個人が悪いわけではなく、それが当たり前だった時代なのですから悪いと決めても仕方がないのです。布教もそうです。
ただ、学ぶ必要があります。何がよくて、何が間違いだったのかと。背景や立場で同じ事実でも、感じ取ることは変わりますから。
サマセット・モームの「雨」は、どんなに理性的にふるまっていても、何かの要因で理性を失ってしまうこともあるというのが大きなテーマだと思います。とくに男女間ってそういうものなのね。
それと同じく、無理やり誰かを変えるのは不可能なんだということを改めて思いました。
結局、キリスト教布教も完全ではないし、植民地主義の影響はまだこの社会に残っているけれど、崩壊し続けていますからね。
歴史から学ぶ意義は大きいです。
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白藤沙織
Web・印刷の株式会社正文舎取締役。 Webプロデューサー 兼 ライター。ときどきセミナー講師。 コーチやカウンセラーの資格を持ち、仕事に活かしています。 ダンス・歌・演劇好き。4コマ漫画のサザエさんをこよなく愛しています。
営業をどのようにしたらよいかわからないときに、Webサイトとブログ、SNSに出会う。以来、情報発信を丁寧にして未来のお客様と出会ったり、お客様のフォローをしています。
仕事もプライベートも「自分の生きたい人生を生きる」ために、「自信や勇気」を届けられたらうれしいです。